† カントの「現象」と「物自体」 †
 

 カントは主著『純粋理性批判』において、形而上学が学問足り得るかを問うた。形而上学は、全体としての世界は如何なるものか、絶対の自存存在=神は在るのかのような、我々の理性が発する究極的問いの答え(以下、真理)を探求するものだが、彼は、我々の認識原理の根本的構造に関し、従前とは方向性の異なる全く新しい体系を構築することによって認識の客観的妥当性を保証し、彼以前*1の形而上学を批判しつつ、これに普遍的必然性を備えた学問的知識と言い得る権利を与えようとした。まず、彼は伝統的形而上学の知識観を4つのアンチノミーの篩にかけ、最高認識能力である理性*2にも実は限界が運命づけられており、故に真理の直接的・客観*3的認識は不可能であることを明らかにした。また、合理論と経験論について、一方のみでは客体の認識は能わず、認識主観の統覚の下にそれらを供応させてはじめて客観的認識はなし得るとして両者を調和させ、そこに主観と客観の結合を見ようとした。では、彼が獲得した人間認識の原理とは如何なるものか。即ち、人間は、絶対的外部から我々の感覚に働きかける「確かにあるべき*4もの」を如何に客観的対象として認識し得るのか。これについて、カントは「もの自体」と「現象」という概念で答えようとする。

 

 彼は合理論にいわゆる、ある種イデアに通じるような生得観念を否定しない。むしろ彼自身、純粋理性批判序章において「我々はある種のア・プリオリ*5な形式を持っている」と述べ、認識における重要な地位をそれに与えている。その第一のものが時間と空間(以下、時空)である。カントに拠れば、時空は客観の対象として「あるべきもの」それ自体の成立条件なのではなく、それについて人間の認識が成立するための条件なのである。即ち、「あるべきもの」それ自体は時空の枠を超越しているが、理性の限界を運命づけられた我々には、時空の枠を超えた経験的認識は不可能であり、ただ時空というア・プリオリに与えられた形式(=場、領野)において「あるべきもの」が我々に与える感覚所与を受容できるに過ぎない。つまり、人間の認識のためにア・プリオリに与えられた「感性的直観の二つの純粋形式」が時間と空間なのであり、我々の客観的認識の対象はこれらに限界づけられるという。そして時空という形式によって構成され、我々の知覚や感性的直観の対象となるものそれは「あるべきもの」それ自体とは画然と区別されるが、しかし確かに存在すべき客観の内容を主観の内に映し出すものそれがカントの「現象」である。換言すれば、現象とは、客観的対象としてあるべきものそれ自体が人間の認識能力によって変容されつつも、我々の内に把捉された姿である。彼以前の真理感では、感情・感性・創造力など受容的感性により直観されるものは「仮象」と呼ばれ、人間自身に根付く下位の認識能力であり、誤謬の源泉であるとされてきた*6。彼もまた、「感覚と経験による認識はすべて仮象にほかなら」ないとするが、その一方で、認識の領野において仮象=現象を統覚の作用で統合すれば、主観の内に客観を定立できるとした点で、従前の真理感と彼のそれとは本質的に異なるのである。

 

 では、時空という枠を介しない全体としての世界、何かに意識されたり、知覚されたりすることとは無関係に存在しているような状態のもの(伝統的にいえば「実体」=神・真理)をどう把捉するのか。カントはこれを「もの自体」と呼ぶ。彼は、理性に拠って「もの自体」を直接に認識することはできないとする一方、全く無意味なものであるともしない。「これをもの自体として思惟することができねばならないという考えは、依然として保障されている。さもないと現象として現れる当のものが存在しないのに、現象が存在するという不合理な命題が生じてくるからである」と述べ、この概念を固持する。カントの頃*7、「実体」については、バークリは主観的観念論の立場から物質的な実体を否定し、ヒュームはバークリが認めた心的実体をも否定して自我を観念の束に過ぎないとみる等、実体存在の否定に向かう趨勢があったようにみえる。カントも「実体」即ち「もの自体」の直接認識は不可能だとしたが、その存在自体は否定せず、現象を契機としてそこから主体に入力される質料的多様性に、ア・プリオリな概念を用いてある種の形式を与える主観の能動的・自発的作用によって「もの自体」のあるべき有様を認識し得るとした点が独特である。つまりカントに拠れば、人間の客観的認識の対象には、「もの自体」と「現象」の二つがあるが、我々の認識は理性の限界の故に、ア・プリオリに与えられた感性的直観形式としての時空に限界づけられるから、時空の内に構成されていて感覚的印象として我々の受容的感性を触発する「現象」は経験的認識の客観的対象とし得るものの、認識能力の領野を超えて存在すべき「もの自体」を客観的対象として直接認識することはできないということである。端的に言えば、確かに存在すべき絶対的外部が「もの自体」であり、その有様を時空という領野を介在して我々の感性の内に朧げに映し出す像が「現象」なのである。これらの概念を基にして、彼は、客観的対象である現象から、如何にして我々が「もの自体」のあるべき一般的、普遍的、必然的有様を経験的に認識することができるのか、その原理を解き明かしていく。

 

 カントは、彼以前には全て分析的と考えられていたア・プリオリな命題の中にも、例えば「7+5=12」のように、「経験が与える以上の普遍性をもって…原因の表象を生起するものの表象に付け加え得る」純粋に分析的ではない命題があることを示し、「ア・プリオリな総合判断」ということが可能的であることを明らかにした。その上で、そのア・プリオリな判断の概念としてカテゴリー=純粋悟性概念を与え、主体が、直観された受容的感性をその下に包摂するとき、受容的感性は必然的普遍的判断に転化して客観的認識を得るという。つまり、認識は受容的感性と自発的悟性の結合によって成立し、その際、常に統一的な認識主観の自己意識が当該ア・プリオリな総合判断を根拠づけるが故に、主観的統覚による感性と経験の総合的結合がもたらす認識には客観的妥当性が担保される*8

 

 こうしてカントは、感性と経験を共に認識のために不可欠の契機と構成し、認識の成立根拠を「客観たるもの自体」の側から「主観たる人間」の内に移す大転回をなし、真理は最初から誤謬や仮象と峻別されてア・プリオリに与えられるものではなく、時空に限界づけられた認識の領野において経験の検証を重ねる主観の自発的な運動作用の内に、対象は我々の認識に従って規定されるという原理を獲得した。それを可能にしたのが「現象」と「もの自体」の峻別及び現象概念の確立である。即ち、カントの「現象」と「もの自体」は、彼の認識原理の精髄である。以上。

 

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*1.ライプニッツやウォルフの形而上学

*2.伝統的形而上学は人間の最高認識能力を知性(インテレクトゥス)とした。インテレクトゥスは、媒介を経ないで全体を一瞬で把握する能力で、理性(ラチオ)は理詰めで漸次的に推論していく能力をいうが、カントにおいてはこの両者が入れ替わっており、彼はインテレクトゥスの意味で理性の語を用いている。

*3.本稿では主として「認識の対象たる客体」の意で「客観」の語を用いる。

*4.本稿ではmust beの意味で「べき」と表記し、should beの意味では単に「べき」と表記する。

*5.経験的認識の根本的な前提条件をなす普遍妥当的な認識。可能的経験一般の形式を先取的に認識すること。

*6.デカルト、マールブランシュ、スピノザ、ライプニッツなど

*717世紀中葉から19世紀初頭。実体についてバークリーやヒュームが隆盛であった頃

*8.「われ思う」という自覚はそれを思う主観にとって常に普遍的で統一的な自己意識である。その統一的自己意識が、認識の領野に入力された受容的感性を、普遍的かつ統一的に与えられているア・プリオリな概念=カテゴリの下に包摂して総合判断するから対象は認識として規定される。故に、当該認識は、当該主観にとって、常に普遍的かつ統一的であり、必然的である。ただし、当該認識は当該主観によって定立するものである以上、常に真であるとは限らない。従って、時空において経験の検証を重ねる主観の自発的作用の積層によって「然るべき=善き」認識が可能的となる。


2018.02.02

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